「ウェブ進化論」読了

これまた古い本だが、梅田さんの爆弾発言があって「読まなきゃ」と思っていたやつである。先月中に読み終わっていたが、なかなかまとめる暇が無くて今日になってしまった。出版が2006年2月だからもう3年半も前の状況がを踏まえての著である。今読むとさてどうなのか。

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

まず全体的に「なるほど売れる訳だ」というのが感想。全体美味しいところを押さえていて、ほぼスラスラ読める内容になっている。そして驚くことに、こんな流れが速いIT業界において3年半たった今でも十分に読み応えがある。

日本の場合、インフラは世界一になったが、インターネットは善悪で言えば「悪」、清濁では「濁」、可能性よりは危険性の方にばかり目を向ける。良くも悪くもネットをネットたらしめている「開放性」を著しく限定する形でリアル社会に重きを置いた秩序を維持しようとする。
この傾向は、特にエスタブリッシュメント層に顕著である。「インターネットは自らの存在を脅かすもの」という深層心理が働いているからなのかもしれない。
米国が圧倒的に進んでいるのは、インターネットが持つ「不特定多数無限大に向けての開放性」を大前提に、その「善」の部分や「清」の部分を自動的に抽出するにはどうすればいいのかという視点で、理論研究や技術開発や新事業想像が実に活発に行われているところなのだ。
p.21序章 ウェブ社会−本当の大変化はこれから始まる より

なんかこの本を読んでいるとデジャブに駆られる。自分が使った言葉が結構出てたり、自分がとりあえず書いたことの裏づけが取れたりするのだ。でもそれってこの本に影響を受けた人のblogに自分が影響を受けていた、なんて落ちかもしれない。
ここで書かれていることは今でも正しい。ただ違うのは「諦め」の空気が流れていることくらいか。で、今の梅田さんはと言えば、まさに「悪」やら「濁」やらに目を向けてないだろうか。あくまでも問いかけであるが。

「次の10年」を変える「力の芽」を考えるときに私が一つの拠り所としているのは、その「力の芽」が「持てるもの」によって忌避される類のものである一方、「持たざるもの」にとってはもの凄い武器であるときにその「力の芽」は着実に育つ、という判断基準である。
p.30 第一章 「革命」であることの真の意味 より

これは今でも変わらない。すばらしい判断基準だと思う。自分はまさにそこを狙うべきなのだなとも思う。じゃ、今それにあたるのは?と考えると何も出てこない。なんと感度の低い俺様アンテナなんだろう。ちょっと前ならクラウドだったよなぁとか思ってみたり。

ただ、質の高いブログが増殖してはいるものの、同時に関心のないブログもその千倍以上多く増殖している。また質の高いブログの中でも、自分に関心のないテーマの書き込みが大半という現象を前にして、限られた時間をうまく使って、自分にとって面白いもの、意味あるものをいかにして読むか、という悩みに終わりはやってこない。自分にとって意味があるものだけを自動抽出することの重要性は高まるばかりだが、その実現は難しい。この領域には、技術的にもビジネス的にも、未開の荒野が広がっている。
p.140 第四章 ブログと総表現社会 1 ブログとは何か より

まだこの状態は脱出できてない。それこそはてなが担うべき領域だ。その一つの方法としてはてブがあると思うんだが、結局ノイズが多くて「ホット」なトピックを見分けるだけになってる感じ。少なくとも悪意あるブックマークは跳ね除けるフィルタが必要だと思ってる。SEOではなくBIO (Bookmark INAGO Optimization)みたなものが実はあって、アクティブなブックマーカーを煽るキーワードなり、書き方のコツがあったりするんだと思う。ブックマークを集める記事というのは潜在意識でそれを活用していたりするのではないか。ならば、それをGoogleでいうblack hatとしてある程度明確化し、選別するためのフィルタを開発することで、多少の補正が可能なのではないか、なんて思っていたり。

米国のブログは、米国の文化そのものだなと思うことがよくある。
米国では実名でブログを書く人が多く、日本では匿名(ペンネーム)で書く人が多い。それとも関連するのかもしれないが、米国に住んで思うのは、米国人の自己主張の強さ、「人と違う事をする」ことに対する強迫観念の存在である。彼ら彼女らは「オレはこういう人間だ、私はこう思う」ということを言い続けてナンボの世界で生きているから、ブログもそのための道具として使われる場合が多い。とてもストレートだ。
日本の専門家を比較して思うのは、日本の専門家はおそろしく物知りで、その代わりアウトプットが少ないということだ。もう公知のことだから自分が語るまでもなかろうという自制が働く。米国の専門家はあんまりモノを知らないが、どんどんアウトプットを出してくる。玉石混交だがどんどんボールを投げてくる。
p.143 第四章 ブログと総表現社会 1 ブログとは何か より

ははは。まさに自分が思ってた事そのものだ。自分のリテラシーもそう遅れてはいないのか。それとも3年も遅れているのか。

しかし米国は米国流、日本は日本流で、それぞれブログ空間が進化していけばいいのだと思う。たとえば、日本における教養ある中間層の厚みとその質の高さは、日本が米国と違って圧倒的に凄いところである。米国は二極化された上側が肉声で語りだすことでブログ空間が引っ張られるのに対して、日本は、オープン・カルチャーが根付き始めている若い世代と、教養ある中間層の参入が、総体としてブログ空間を豊かに潤していくのではないだろうか。
p.144 第四章 ブログと総表現社会 1 ブログとは何か より

出版された時点においては言っていることは確かで、自分もそう思う。そしてその日本の若年層がブログ世界に進出してきた。ところが彼らがブログに求めたのは「日々のつまらない仕事の息抜き」「愚痴の吐き出し先」を求めたのであって、梅田氏が予想した、教養を追求したものではなかった。そして中間層も次第に進出してきてはいるのだが、日本的な鞭を打って仕事するという現場で疲れた者は、そういうブログを志向してはいてもその暇を見出せず、なかなか広まらないという現実に見える。だが中間層のうち無職、自営業、主婦などのいわゆる「社畜」ではない層は顕著なブログ進出を果たしているようにも見受けられるのだ。結局非者畜層の拡大が梅田氏のいう残念な状況を改善するのではないか。その拡大は、社員に対する会社の考え方の変化、非社員の増大といったものによるのだろうと思う。

そう考えて入力と出力を発想してみれば、「何かを知りたいと思ったら誰に聞けばいいか」「何かをやりたいと思ったら誰を雇えばいいか」「誰かに会いたいと思ったら誰に仲介を頼めばいいか」……。巨大マップの存在を前提にすると、入力は目的で出力は「人のランキング」になるのが自然だ。むろん相手が情報ではなく生身の人間なので順位付けすることへの抵抗感はあるし、検索エンジンより技術的に難しいから、こうした仕組みが実現されるかどうかはわからない。しかしソーシャル・ネットワーキングは、「人々をテーマごと、局面ごとに評価する」という「人間検索エンジン」とも言うべき仕組みへと発展する可能性を内在しているのである。
p.201 第五章 オープンソース現象とマス・コラボレーション 3 Wisdom of Crowds より

そう、これ。結局似たような考えに落ち着いた。ただ、梅田氏のいうネットワークは有向グラフの関係である。単純に逆方向も成り立つとは言いがたい。それではネットワークとして成り立ちにくく、役に立っている側と役立つ人を利用する側に分離してしまいやすい。それではダメなんだろうと思う。

ネットが悪や汚濁や危険に満ちた世界だからという理由でネットを忌避し、不特定多数の参加イコール衆愚だと考えて思考停止に陥ると、これから起きる新しい事象を眺める目が曇り、本質を見失うことになる。
p.206 第五章 オープンソース現象とマス・コラボレーション 3 Wisdom of Crowds より

この言葉は今の梅田氏に贈りたいなと思う。「残念」発言に対する直接的な答えではないが、何か梅田氏が別の方向を向いてしまっているというもやもやした感覚を成る程という感覚に近づけてくれる言葉に見えてしかたがない。